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3つの単語 短い話

「勉強の哲学」についての感想ではない何か

言葉それ自体を玩具のように使って遊ぶこと。ハロー、ハロー、これは感想のようでいて感想でない、しかし感じること想うことそれ自体を僕は体内から取り出し、放擲して土の中に埋める。やがてそれは雨を吸い取り芽吹いた。僕はユーモアを用いて目的を喪失する。どこへ向かっていたのかわからなくなる感覚が、やがて快楽へと変貌するさまを、見ているのは僕ではない誰かのような気もする。3つのステップ、来たるべきバカになるためのスリー・ステップ・ダンスを踊れ。57577というのはつまり音のダンスだ。ビートだ。しかし居合いでもある。セックスでもあるし、デモでもある。デモでもさ/ビートでもいい/君だけは/セックスそして/ダンスを踊れ 禅の教えはこう説いた。山は山である。否、山は山ではない。ところが最後には結局のところ山が山であることを肯定する。それが悟りの境地であると道元禅師は言った。実際には言っていないが、かつて道元禅師だった800年前の僕がそれを言った。器官なき言語、言葉から意味を剥ぎ取って残されたものを玩具として扱い、壊してしまった僕を母親は叱った。モノクロの映像の中で泣いている僕は、悲しいから泣いているのではない。おもちゃを取り上げられた僕はシニフィエシニフィアンの関係性から置き去りにされた過去を持つ、精神の屍となって新たなる誕生の機会を得た。コードからコードへ、ノリから脱皮してまだ見ぬノリへ飛び込んでいく。グルーヴは別のグルーヴを追い求めて森の中をさまよった。クワス算の思考実験を漫才に取り入れた漫才師は、その世界で頂点を極めた。それは言うなれば裏切りを正当化する技術だった。裏切りによって生まれる享楽を、彼らは言語へと翻訳した。市井の言語へと。統合失調症の患者はこの世界全体のノリから逸脱している。彼らには彼らなりのノリが存在していて、僕たちはそれを未だかつて経験したことがない。壁がある。ノリからノリへの移行は壁を壊すことではなく、壁をすり抜けることであると解釈した僕は、半透明の体になって唾液を垂れ流しにした。僕には見えている。他人からは見えない。センチメンタルな気分になる。そんなものに意味はないよと誰かが呟いた。僕は聞こえないふりをした。来たるべきバカはまるでステルス戦闘機のようにいつの間にかパーソナルな領域に侵入して、僕たちを魅了する。僕は千葉雅也だ、と僕は言うことができる。同時に、僕は千葉雅也ではないと言うこともできる。彼はそれを器官なき言語として受け取る。ハロー、ハロー、音声の届く範囲は自ずから有限化されている。音の震えが空気を通して拡がっていく時、もはやその言葉は意味を失っている。いや、そうじゃない。「その言葉を発した僕が失われている」という言い方のほうが正しい。僕はラインハルト・ハイドリヒだ、と僕は言うことができる。あるいは、マサチューセッツ州では13人の半魚人がメイプルシロップ工場を経営している、と言うことだってできる。僕は語るべき言葉を持たないものについて、語ることはできない。そのことに対して自覚的であるかどうかは、深く勉強することによって身につくものだと信じ込んでいるフシがあるが、果たしてどうであるか見当がつかない。言語の他者性が僕の隣を歩いている。僕たちは並んで歩いているが、永久に交わることがない。それが平行という概念だ。ボウリングの球は振り下ろした段階で既に瑕疵を含んでいる。遙か先の宇宙空間へ飛んでいった13ポンドの球は目的の惑星に到着できない。人類の存続をかけたプロジェクトが失敗に終わったことで、人々はいたく悲しんだ。来たるべきバカだけがそれを知っていた。悲劇ではなく喜劇として語り継がれることになるその顛末こそが、深く勉強をした者にだけ訪れるアイロニーだった。アマ・モードの言語である僕の語りには価値がない。経済合理性を持たない僕の語りは世の中から無視される。労働の対価として得られる賃金を生きることそのものに充当する、そんなのは間違いだ!と駅前で叫んだ僕を見知らぬ人々が奇異の視線で眺める。繰り返す、これは訓練ではない。感想でもなければ、批評でもない。これはただひとえに、僕の千葉雅也に対する親愛の表れだ。言葉を玩具のように使って遊ぶこと。僕は自慰行為を覚えた猿のようにそれを止めることができない。変身する。昨日の僕は今日の僕ではなくなっている。時にそれは友人や家族を驚かせる結果になる。それでも僕は変身を続ける。昨日なんてもったいぶらず、数時間前、あるいは数分前の僕から、僕ではない僕へと変身する。何によって? 勉強によって。深く勉強することによって。来たるべきバカになれ。やがて到来する未知に対して、ステルス戦闘機のように。