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3つの単語 短い話

高層マンション 殺し屋 冬眠

 ナミブ砂漠の荒野に突如として高層マンションが建ったのは8月の夕暮れ時で、世界中から入居者が殺到するのにそれほど時間はかからなかった。1250室ある部屋は2週間のうちに完売し、マンションの前には引越し業者の巨大なトラックがひっきりなしに停まっては去っていった。「最上階に誰が住むか、知ってる?」住人たちはときおり噂話をした。様々な憶測が飛び交ったが、真実を知る者は誰ひとりとしていなかった。屋上はプール付き、広さにして800平米、最新設備のジムや24時間貸し切りのバーまである。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、屋上のプールサイドでジムビームを飲みながら、どこから始まってどこで終わるのかすらわからない、永遠に続くとも思えるナミブ砂漠の荒野を眺めていた。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、仕事道具の手入れに余念がない。ピカピカに磨かれたベレッタ社製のスナイパーライフルはすぐにでも火を噴くことができる。いつでも獲物を仕留めることができるように、彼は緊張の糸を切らさなかった。「報酬は1億ドルだ。成功すれば一生遊んで暮らせるぞ」世界一の大富豪であるデイビッド・コールマンから依頼を受けた時、そのあまりの報酬に目がくらんだことも事実だ。しかし、手渡されたターゲットの資料に目を通した「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、一瞬にして興味が失せてしまった。「俺には殺せない。無理だ」資料には1枚の白黒写真が載っていた。スーツ姿で頬杖をついた壮年の男性はカメラから目線を外して、物憂げに虚空を眺めている。デイビッド・コールマンが憎悪し、殺したいとまで願ったターゲットは「まだ1冊も書いたことのないケストナー」だった。「1冊も書いたことのないケストナーなんてのは存在しない。だから、殺すこともできない。単純明快だ」そう言って「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、世界一の大富豪デイビッド・コールマンに資料を突き返した。「しかし、1億ドルはほしいだろう?」デイビッド・コールマンは悪魔的な笑みを浮かべた。実際、「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は生活に困窮していた。殺し屋を生業にしているにもかかわらず、まだ1人も殺したことがないのだから当たり前だ。ここ数日、缶詰のSPAMとヤングコーンをほんのわずかずつ消費しながら飢えをしのいでいた。空腹だし、着るものもない。ほとんどホームレスのような暮らしをしていた。「わかりました。やってみましょう」2人は固い握手を交わした。それから「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は世界中を渡り歩き、「まだ1冊も書いたことのないケストナー」を探し回った。聞き込みを入念に行ない、現地の探偵事務所と提携を結んで調査したが、どれほど手をつくしてもヒントのようなものすら見つからなかった。それから36年の歳月が過ぎた。世界一の大富豪であるデイビッド・コールマンは世界82位にまで資産を減らしていたが、それでも富豪であることに変わりはなかった。引き続き殺し屋としての任務は続いていた。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」が「まだ1冊も書いたことのないケストナー」を殺すまで、彼の仕事は終わらなかったし、それらにかかる費用はデイビッド・コールマンから無尽蔵に与えられた。8月、ようやく「まだ1冊も書いたことのないケストナー」に関する重要な情報を手に入れた。信頼できる筋からの情報だった。情報によれば、「まだ1冊も書いたことのないケストナー」は、ナミビアの食人族の一員として近親相姦を繰り返し、族長の怒りを買って集落の若者たちからリンチを受けあやうく殺されそうになりながら、命からがら逃げ延びたナミブ砂漠の洞窟で黄色人種の聖女に出会い、彼女の膝枕の上で長い冬眠に入った後、20回の夏と8回の冬を越して、そろそろ起き出す頃合いなのだという。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、ジムビームを飲み終えると、腕時計に目をやった。それから立ち上がり、目標となる洞窟の入り口に照準を合わせた。スナイパーライフルの重みが指先に伝わり、脇に冷たい汗が流れた。ようやくこれで終わりだ。洞窟の奥がほのかに明るくなった。松明の炎が揺れていた。ゆっくりと、しかし確かな足取りで「まだ1冊も書いたことのないケストナー」が洞窟を出ようとしていた。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は大きくひとつ深呼吸をし、そして、引き金にかけた指に力を入れた。