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3つの単語 短い話

坂口恭平がドゥルーズになった。かつて俺はニーチェだった。

 坂口恭平ドゥルーズになった。かつて俺はニーチェだった。これはかつてニーチェだった俺による、ツァラトゥストラ・エピソード・ゼロだ。体内が66%の水分で満たされていく間、山から下りて没落する以前のツァラトゥストラはこう言った。「まだ私はこのように言わない」。朝早く起きると、彼は山の上にいた。ニーチェだった俺が作り出した彼は、山の上で頭上すれすれをジャンボジェット機が通過していくのを見た。ドゥルーズになった坂口恭平は山肌を駆け回るトカゲとして前世までさかのぼった。昼が来て、夜が来る。強烈な夕日は彼の瞳に焼き付いてその後死ぬまで剥がれなかった。「私は知っている」とツァラトゥストラは言った。「なにを?」ドゥルーズになった坂口恭平が尋ねた。「私は予言者ではない。だから、予め言わない」これは嘘だ。ハッタリだ。まやかしだ。それにもかかわらずニーチェだった俺はそれを書き続ける。言語としてではなく、旋律として。ドゥルーズになった坂口恭平はそれを暴き続ける。これは音楽だ。ドゥルーズになった坂口恭平がギターを弾いて、ニーチェだった俺はツァラトゥストラの鼓膜を通じてそれを聴いている。6弦が切れた。6弦が切れることなど滅多にないが、それでも2弦が切れるよりは幾分マシかもしれない。CとDがあり、EがなくてFもなくてGもない、しかしAもBもある。「それで十分じゃないか。それ以上なにがいる?」ドゥルーズになった坂口恭平は弾き続けた。それは未だかつて誰も聴いたことのない、新しい音楽の体細胞を生み出した。彼らは山の頂上で朝日を迎え、夜を恐れ、昼に焼かれた。それを1年で延べ365回繰り返した。延べ、というくらいだから、同じ日が2度やってくることもあった。そういう時、彼らは災いを恐れて沈黙を選んだ。ニーチェだった俺はそれを文字によってではなく、動作によって表した。動作は筋肉と連動して、汗となり脂となり、そこにハエが寄ってくる。ハエの羽音は音楽だった。ニーチェになった俺はやはりその羽音の音楽を文字に変換することなく、動作によって移し換えた。「音楽のように聴こえるね」ドゥルーズになった坂口恭平は何もかもを見通した目で、千のプラトーを破壊する。ページの1枚1枚を涙で濡らして、文字を読めなくするのだ。それが彼の破壊であり、生きるための唯一の術でもあった。ここは赤土の土地で、山肌は緑に苔むしていた。いつの間にかツァラトゥストラの肌が、没落以前に苔で覆われていた。ニーチェになった俺の爪は赤土の岩だから剥がれやすい。キーボードを叩くたびに崩れ落ちる爪のかすを、山頂を旋廻するハゲタカが抜け目なく狙っていた。やがてハゲタカはニーチェだった俺の、もとい、没落以前のツァラトゥストラの目の玉を鋭いくちばしで貫くだろう。「見えないほうがいい。恐怖を感じなくて済むからね」「見えなくても朝焼けは朝焼けだ。夕焼けは夕焼けだ。それくらいの区別はつく」「好きにすればいい。俺は元々目が見えないんだから、どちらでもいいことだ」ドゥルーズになった坂口恭平は切れた6弦の先を目に突き刺した。しかしそこに眼球は存在しなかった。あったのは、木漏れ日に佇む在りし日のニーチェの肖像だった。つまり、俺がニーチェになる以前のニーチェだ。俺がニーチェになる以前のニーチェには、物乞いと貴族の区別すらつかなかった。だからこそ俺はニーチェになったのだし、頭上すれすれを通過するジャンボジェット機の窓から手を振った恋人に手を振り返すために、坂口恭平ドゥルーズになった。これは原因のようでいて、結果でもない。ただの態度だ。災いを偶然にも免れた人生を、どのように生きていくのかという態度でしかない。「そろそろ山を下りようかと思っているんだ」365回の朝焼けと、366回の夕焼けをやり過ごした後に、ニーチェだった俺はツァラトゥストラがこのように言うのを聞いた。まだ言わなかった彼が、このように言ったのだ。「お前は“けもの”じゃない。機械だよ」ドゥルーズになった坂口恭平は吐き捨てるように呟いた。ツァラトゥストラが山を下りることに彼は反対だった。「機械になること。筋肉を凍りつかせ、骨を無機物にすること。脳みその伝達回路を全て焼き切ること。爪を岩でなく金属にすること。性器はドリル状のなにか、排泄口からは油しか垂らしてはいけないこと。コミュニケーションを定型化すること。笑顔でいること。不機嫌でいること。それらは両立できるのだということ。皮膚をプラスチックにすること。乳首をボタンにすること。へそをコンセントプラグにすること。耳に音楽を聴かせ、音のパターンを蓄積し、分析し、それらを、何にも活かさないこと。鼻をなくすこと。あらゆるにおいを無効化すること」ニーチェになった俺がツァラトゥストラに言わせているこれらの台詞は全て福音書の一節として記録されていた。坂口恭平ベケットになった。誰かを待っている。大きな木の下で。誰を? わからない。誰を待っているのかわからない、しかし待つ理由はある。ベケットになった坂口恭平は通り過ぎていく人々が、その誰かではないことを知っていた。だから彼はそれを戯曲に書いた。待ち人と自身とが同一化していく中で、彼は分裂した。分裂することができるならば、肉体は必要ないのだとニーチェだった俺はペンの先でわら半紙に書き記す。「私は肉体であり、魂である」肉体を軽蔑するものについて、彼らは話し合っている。その話合いは1世紀の間途切れることなく続いた。そして今、答えらしい答えが出ないままツァラトゥストラは山から下りようとしている。ニーチェだった俺が、ニーチェであることをやめる時、それはすなわちケストナーになる。ケストナーになった俺はまだ1冊も本を書いたことがなかった。その時点では。しかしこれからも書き上げる予定はない。書く予定があると言って人々を騙し、はした金をせしめている。これは犯罪だ。ケストナーになった俺は犯罪者になりたくないと思う。だから書こうとする。しかし1行も書けない。これは病気かもしれない。1冊も書いたことのないケストナーケストナーであるはずがないと俺は独り言を呟いた。千のプラトー第10章を書き上げた後、ドゥルーズからベケットになった坂口恭平はおもむろにギターを持ち上げると、それを思い切り振り下ろした。恐ろしい不協和音が鳴り響いてギターが壊れた。坂口恭平はジョイスになった。ジョイスになった坂口恭平から顔が消えた。目、鼻、口、耳があるにもかかわらずそれは顔ではなかった。「口がないから話すことができない。だから俺は書くしかないんだ」顔のないジョイスになった坂口恭平は存在しない口で話した。ケストナーになった俺はそれを聞いていながら無視した。ケストナーになった俺は本を書き上げる必要があった。まだ1冊も書いたことのないケストナーから、1冊書いたことのあるケストナーへ変貌を遂げようというのだ。ケストナーになった俺は山の上で強烈な朝日を浴びながら、わずか5分の間に最初の1冊を書き上げた。完成してしまうと急に気が抜けて、ケストナーであったはずの俺はみるみるうちにウィトゲンシュタインの体組成へと細胞分裂した。「語り得ないものについてこそ語れ」。ジョイスになった坂口恭平は呆れ返ってものも言えない。かつてケストナーだった俺が5分もの時間をかけて1冊の本を書き上げる間、ジョイスになった顔のない坂口恭平フィネガンズ・ウェイクのバージョン違いを3パターン書き上げ、編集者との最終打ち合わせ段階に入っていた。ギターが壊れた。顔は失われた。いったい何を書くというのだ。ウィトゲンシュタインになった俺はちらりと彼の著作を覗き込んだ。するとあまりの眩しさに目が潰れてしまった。盲になったウィトゲンシュタインである俺は、山を下りることができなくなった。しかしニーチェだった俺が山を下りようとすることは前日から予測されていたはずだった。「俺は空間を作る。お前は何を作るんだ?」ジョイスになった坂口恭平は再びドゥルーズになった。「俺は塔を建てる。バカでかい塔を」ウィトゲンシュタインとしての肉体が溶け、思考だけになった俺はまさしくニーチェそのものだった。ドゥルーズになった坂口恭平は都市にも国家にも真っ向から「去れ」と戒める。ニーチェになった俺は溺れ死ぬことができる海を前にして予言者を殺した。「人間であること。しかし、それにもましてけものであること。けものになること」とドゥルーズになった坂口恭平は言った。「予言しないこと。予め、言わないこと。全ての言葉はその場で解体すること」とニーチェだった俺は言った。「音楽のように」坂口恭平は言った。「音楽のように」俺は言った。ドゥルーズになった坂口恭平は、真っ赤な夕焼けで血のように染まった山肌を這いずり回るトカゲの頭を切り落とし、そこに意味を見出さなかった。そして壊れたギターの切れた6弦で、ニーチェになった俺の心臓を突き刺した。ニーチェになった俺は即死した。ドゥルーズになった坂口恭平は存在しない顔で、見えない目で利かない鼻で聞けない耳で、山を下り始めた。死体となったニーチェたる俺は山頂で腐乱した肉をハゲタカについばまれた。内臓を引きちぎられる様は音楽だった。消え失せた精神は金属だった。肉体をなくしたニーチェは満足だった。

犯罪 軍隊 マジシャン

 この国に犯罪は存在しない。もちろん罪を犯す者はいる。人間に対する無誤謬を頑なに信じているのは無知で無能な運動家だけである。人間は自ずから過ちを内包している。まず、そこから始めなければ国家の統治など夢のまた夢だ。1つ例をあげよう。私が今まで粛清してきた延べ3万3,000人の民衆に、私は謝罪するべきか? 答えはノーだ。私は国家統治の大義のもとに、多くの罪のない人々を殺めてきた。同じ者を2度殺したこともある。彼らは一度殺した後、新たなる時代に、新たなる人格を伴って蘇った。私はそれを見逃さなかった。だから再び殺したのだ。今、この演説を聴いている国民及びジャーナリスト、革命家、時間旅行者、けもの、現代彫刻、ピエロ、足のない幽霊、生まれる前の受精卵、孤独死した老人、神、四つ目の一角獣、それら全ての者たちを私は2度殺すだろう。しかしながらこれは犯罪ではない。すなわち、逆に、あなた方が私を殺そうとしても、それもまた犯罪にはならないのである。他国なら反逆罪で捕らえられるはずの行為も、我が国では罪にすらならず、むしろそれが積極的に奨励されていることは先日公布された政令をお読みになればわかるはずだ。そして本日、私は議会の承認を得てある一連の法改正を行おうと考えている。それは、自国内で保持する軍隊を二分させ、紛争を起こし、勝利した部隊を総動員して他国へ攻め入り、世界戦争を起こすことを目的とした法規定になるだろう。これは国際法上の違法行為であるが、それ以前に我が国の最高規範である憲法の第1958条第1項においてこのように定められているのを見逃してはならない。読み上げてみよう。「国民は暴力と憎悪を基調とする世界戦争を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、世界規模の破滅を惹起させる手段として、永久にこれを求め続けなければならない」そして第2項には、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持する。国の交戦権は、これを認める」と掲げられているとおり、我が国はそもそものはじめから暴力国家として成立していることがわかる。そして我が国の領土においては、国際法及びあらゆる倫理規範よりもこの憲法の条文が上位に位置し、機能するのだということを我々は忘れてはならないのである。明日、これらに関する一連の改正法である「我が国及び国際社会の壊滅及び殲滅の推進に資するための暴力軍隊法の一部を改正する法律及び国際紛争に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する積極的侵略及び殺戮に関する法律の施行に伴う関係法律の整備に関する政令」が公布、施行される。これで私たちは戦争を行なうことが可能となる。繰り返すが、これは議会の承認を得、正規の手続きを経て行なわれるものである。私は独裁者ではない。民主的な選挙によって選ばれた議員による、これはれっきとした議会制民主主義の帰結である。この国に犯罪は存在しない。マジシャンが観客からコインを借りて、マジックでそれを消してしまう。もしコインを「本当に」消してしまったのなら、それは犯罪になる。しかしマジックにはタネがある。コインはマジシャンの袖の中に隠されている。だから、犯罪にならない。聴衆の皆様方においては、これらの政府方針にご理解ご協力の上、粛々と国民としての義務を果たしてほしいと考える次第である。以上、私の演説を終了する。

セレモニー 円周率 オーロラ

 セレモニーの招待状が届き、明くる日、私は正装で会場へと向かった。セレモニーは都心にある高層ビルの大ホールで行なわれる予定だった。人身事故によって電車が遅れ、私は開始時間ぎりぎりに到着した。受付には同じ顔をした女が2人座っていて、同じ動作を繰り返していた。つまり、唇を指先で撫でて、性行為のイメージを喚起するための動作だ。私は招待状を受付に提出した。同じ顔をした2人の女は同時にそれを受け取り、2人で両端を掴んで引っ張りあった。招待状は音を立てて破れた。「身分証明証はお持ちですか?」1人の女が聞いた。「セレモニーに身分証明証が必要なのですか?」私は尋ねた。女は質問に答えなかった。もう一方の女が唇を開き、歯茎をむき出しにしながら服を脱ぎ始めた。私は慌てて会場の中へ入った。背後から声が聞こえたが、無視した。セレモニー会場は多くの人で埋め尽くされていた。金屏風で華やかに彩られた壇上には大きなゴチック文字で「セレモニー」とだけ記された看板が掲げられていた。私はセレモニーに招待されたが、それが何のためのセレモニーなのか知らされていなかった。ボーイが近付いてきて、盆に載せたカクテルを勧めてきた。私はエメラルド色をしたカクテルをもらった。一口飲んだが、カクテルには味がなかった。それは液体ですらなかったのだ。私は架空のカクテルを飲みながら、セレモニーが始まるのを待った。周囲の人々は楽しげに会話をしながら、時々笑いあっていた。私は知り合いがいないものかと周りを見渡してみたが、1人も見つからなかった。時計を見た。開始時刻を15分ほど過ぎていた。私はテーブルの上のクラッカーを手に取り、食べた。ところがそれはクラッカーではなくクラッカーのふりをした構造主義だった。構造主義を食べたところで腹が満たされるわけがなかった。私は次第に苛立ちを募らせた。話し相手がほしかった。周りを見回した。壁にもたれながら手持ち無沙汰な様子で壇上を眺めている女がいた。私は近付いて、話しかけた。「少し開始が遅れているようですね」女はにこっと愛想のいい笑みを浮かべ、頷いた。「2165783621635854324635」女は答えた。「なんですか、それは?」私は困惑した。女はきょとんとした顔で首をかしげ、噛んで含めるようにゆっくりと続けた。「51325658652545555562587482134」結局のところそれは、円周率の一部だった。私は会話を諦めて、再びテーブルのそばに戻った。注意深く聞き耳を立ててみると、驚くべきことに、周りの人間はみな円周率の一部を暗唱していた。真面目な顔で討論をしているように見える人も、冗談を言い合う人も、みな円周率を口にしているのだ。私は愕然とした。私だけが異なった言語を話しているようだった。急に激しい孤独を感じた。仲間はずれにされているような気分だった。私は試しに、学生時代に暗記させられた円周率を諳んじてみた。「3.1415926……」すると突然、会場中の全ての人間が話すのを止め、一斉に私の方を見た。会場がしんと静まり返った。私はぎょっとした。「違うんです。試しに言ってみただけで、そういうことでは……」言い訳めいたことを慌ててつぶやくと、人々はほっとしたように私から目線を外し、再び話し始めた。会場は元通りの喧騒に包まれた。それから間もなく、照明が消えた。音楽がかかり、壇上にスポットライトの光が当てられる。みなが一斉に拍手をした。私も一生懸命手を叩いた。派手な衣装を身にまとった中年の男が壇上に現れた。会場のボルテージは最高潮に達した。男は用意されたマイクの前で、話し始めた。厳密に言うと、男は話していなかったし、彼が発したのは言語ではなかった。おそらく、男はマイクを通して、星々のイメージ、オーロラの揺らめき、太陽の灼熱を視覚ではなく聴覚を用いて人々に伝えているのだった。それは言語でもなくメロディでもなく、ましてやノイズや音波でもなかった。しかし会場にいる全員が、男の発したものの効果によって壮大な宇宙旅行を疑似体験したことは厳然たる事実だった。セレモニーは大盛況のうちに終わった。私は見知らぬ人々と、それがいかに素晴らしいものだったか感想を言い合った。会場を出ると、受付の女が3人に増えていた。そのうちの1人は別れた元妻だった。元妻は私を見つけると気まずそうな顔で言った。「あなたも来ていたのね」私は頷いて、妻に答えた。「94655356772」

高層マンション 殺し屋 冬眠

 ナミブ砂漠の荒野に突如として高層マンションが建ったのは8月の夕暮れ時で、世界中から入居者が殺到するのにそれほど時間はかからなかった。1250室ある部屋は2週間のうちに完売し、マンションの前には引越し業者の巨大なトラックがひっきりなしに停まっては去っていった。「最上階に誰が住むか、知ってる?」住人たちはときおり噂話をした。様々な憶測が飛び交ったが、真実を知る者は誰ひとりとしていなかった。屋上はプール付き、広さにして800平米、最新設備のジムや24時間貸し切りのバーまである。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、屋上のプールサイドでジムビームを飲みながら、どこから始まってどこで終わるのかすらわからない、永遠に続くとも思えるナミブ砂漠の荒野を眺めていた。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、仕事道具の手入れに余念がない。ピカピカに磨かれたベレッタ社製のスナイパーライフルはすぐにでも火を噴くことができる。いつでも獲物を仕留めることができるように、彼は緊張の糸を切らさなかった。「報酬は1億ドルだ。成功すれば一生遊んで暮らせるぞ」世界一の大富豪であるデイビッド・コールマンから依頼を受けた時、そのあまりの報酬に目がくらんだことも事実だ。しかし、手渡されたターゲットの資料に目を通した「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、一瞬にして興味が失せてしまった。「俺には殺せない。無理だ」資料には1枚の白黒写真が載っていた。スーツ姿で頬杖をついた壮年の男性はカメラから目線を外して、物憂げに虚空を眺めている。デイビッド・コールマンが憎悪し、殺したいとまで願ったターゲットは「まだ1冊も書いたことのないケストナー」だった。「1冊も書いたことのないケストナーなんてのは存在しない。だから、殺すこともできない。単純明快だ」そう言って「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、世界一の大富豪デイビッド・コールマンに資料を突き返した。「しかし、1億ドルはほしいだろう?」デイビッド・コールマンは悪魔的な笑みを浮かべた。実際、「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は生活に困窮していた。殺し屋を生業にしているにもかかわらず、まだ1人も殺したことがないのだから当たり前だ。ここ数日、缶詰のSPAMとヤングコーンをほんのわずかずつ消費しながら飢えをしのいでいた。空腹だし、着るものもない。ほとんどホームレスのような暮らしをしていた。「わかりました。やってみましょう」2人は固い握手を交わした。それから「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は世界中を渡り歩き、「まだ1冊も書いたことのないケストナー」を探し回った。聞き込みを入念に行ない、現地の探偵事務所と提携を結んで調査したが、どれほど手をつくしてもヒントのようなものすら見つからなかった。それから36年の歳月が過ぎた。世界一の大富豪であるデイビッド・コールマンは世界82位にまで資産を減らしていたが、それでも富豪であることに変わりはなかった。引き続き殺し屋としての任務は続いていた。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」が「まだ1冊も書いたことのないケストナー」を殺すまで、彼の仕事は終わらなかったし、それらにかかる費用はデイビッド・コールマンから無尽蔵に与えられた。8月、ようやく「まだ1冊も書いたことのないケストナー」に関する重要な情報を手に入れた。信頼できる筋からの情報だった。情報によれば、「まだ1冊も書いたことのないケストナー」は、ナミビアの食人族の一員として近親相姦を繰り返し、族長の怒りを買って集落の若者たちからリンチを受けあやうく殺されそうになりながら、命からがら逃げ延びたナミブ砂漠の洞窟で黄色人種の聖女に出会い、彼女の膝枕の上で長い冬眠に入った後、20回の夏と8回の冬を越して、そろそろ起き出す頃合いなのだという。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は、ジムビームを飲み終えると、腕時計に目をやった。それから立ち上がり、目標となる洞窟の入り口に照準を合わせた。スナイパーライフルの重みが指先に伝わり、脇に冷たい汗が流れた。ようやくこれで終わりだ。洞窟の奥がほのかに明るくなった。松明の炎が揺れていた。ゆっくりと、しかし確かな足取りで「まだ1冊も書いたことのないケストナー」が洞窟を出ようとしていた。「まだ1人も殺したことのない殺し屋」は大きくひとつ深呼吸をし、そして、引き金にかけた指に力を入れた。

一軒家 ロンドン 釣り

 一軒家のだだっ広いリビングに座って、自らの生きてきた85年もの歳月を始めから終わりまで思い出しているとちょうど1日が終わった。革張りのソファは年代物、私と同じように年を取り、こわばってしまった。まるで私の皮膚そのもののように。これが私の棺桶になるだろう。愛着があるのだ。日が暮れかけている。髭をさする。愛猫のステファニーが3日前から行方不明だった。いつものように朝の散歩に出かけ、昼には帰ってくるはずだった。庭の片隅には皿に乗った魚の切り身が放置されたまま、ハエがたかっている。すべての者たちが私のもとから去っていった。妻も、息子も。友人だって、遠く離れた場所へ旅立ったり、死んだりした。玄関のチャイムが鳴った。私はたっぷりと時間をかけてソファから立ち上がり、玄関へ向かった。「郵便です」若い女の郵便配達人が言った。「ありがとう」私は受け取った。私が若い頃、郵便配達は男の仕事だった。今では孫のような年齢の娘がそのような仕事を行なっている。私はそれを不思議だとも思わなかったし、ましてや悪いことだとも思わなかった。「猫を見なかったかい?」立ち去ろうとする郵便配達人の背中に、私は声を掛けた。女はきょとんとした顔で振り向いた。「猫?」「そうだ。茶色と白のまだら模様で、右耳が少し欠けている」女は視線を左斜め上に向け、しばらくのあいだ考えていた。夏が終わった。短い秋に向かって移ろいかけた庭先で、乾いた風が裸の枝を揺らしていた。「見てないですね」「そうか、ありがとう。呼び止めて悪かった」女は軽く首を振り、微笑みを浮かべ去っていった。郵便物の消印はロンドンだった。ロンドンに知り合いはいない。差出人の名前にも見覚えがなかった。しかし宛先は確かに私の名前、住所だ。私は首を傾げた。開封すると、中には便箋2枚分の手紙が入っていた。「こちらはまだまだ暑い日が続いています。調子はどうですか? リンディーがスカッシュの大会で3位になりました」それから手紙の主は、私の見知らぬ娘が勉強よりもスカッシュに熱中しすぎていることについて、また、私の見知らぬ父親の財産分与について、まとまりのつかない文章を続けた。「では、お体に気を付けて。本格的な冬に入る前に、そちらに伺う予定です」ロンドンよりも遥か北、この街の冬は恐ろしく長い。一度雪が降り始めたら半年は降り続けて、積もり積もった氷の壁で街を埋め尽くし、世間から隔離された陸の孤島と化してしまう。手紙をすべて読み終えてから、私は夕食の準備を始めた。明日は釣りに行く予定だった。湖が凍りつく前に、できるだけ食糧を調達しておかなければならない。私だけじゃない。それはステファニーのためでもある。彼女が長旅を終えて帰ってきた時、すぐにご馳走を出してやらなくて何が飼い主か。私は明日釣りに出かける。夕食を終えたら、倉庫から釣り竿を引っ張り出してこなくては。シチューが煮えた。ぐつぐつと湯気を立てる鍋の蓋を手に取り、皿によそいながら私は、私のもとからいなくなった人間たちと、見たことのないロンドンの街並みについて思いを巡らせた。

サングラス 埋め合わせ 水族館

 すれ違った野良犬がサングラスをかけていたような気がして、そんな馬鹿な。後ろ姿はパープルやライムグリーンをあしらった派手なマダムで。紐でつながれた犬はダックスフンドか? 「クリムトの描く女の乾いた髪の毛」はわざわざ道を戻って散歩する者たちを見て、やはり、犬はサングラスを。「どうしてですか?」そのように聞いたはず。マダムには聞こえない「場合」だったらしく、聞こえる「場合」に連絡してくれと手渡された紙切れを「クリムトの描く女の乾いた髪の毛」は飛行機にして飛ばした思い出、って。どうかしている。どうかしていないわけがない。どうかしていなかったとしても、それは正義とは限らなく。「クリムトの描く女の乾いた髪の毛」は自宅に帰りストーブの火が燃え移らないように注意しながら温まるため冬は生き辛い、南国への移住を計画している。電話が鳴らない。だからこちらから電話をかける。電話の向こうでクリムトは言い訳ばかりで。「この前だってドタキャンされたんだから。ね? ドタスタでキャンドル。意味、わかってるの?」「埋め合わせは必ずするよ。でも、今はまだ別の女のところにいるから」クリムトは答えた。相変わらずデリカシーがないのなんのって。「クリムトの描く女の乾いた髪の毛」にとって、これほど電話を切るための好都合。窓ガラスが凍りついて、外には出たくない。テレビをつけた。ニュース番組でアナウンサーが笑って、「クリムトの描く女の乾いた髪の毛」も笑って。「毎秒ごとに下がる気温が原因かどうかは定かではなく、水族館の水槽があらゆる時系列において凍りつき、みなさん、見に行きましょう、この機会に」アナウンサーはそう言い残してボールペンを首に突き刺し自殺、2分後にはスポーツ新聞一面に吹き出る血しぶきが掲載されて国際連合から勧告を受けてこの国は崩壊した。「クリムトの描く乾いた髪の毛」はそれを機に南国への移住を決意、ドミニカ共和国の強烈な日差しに目が眩んでも、これでもう暖房器具から燃え移ることがないとわかると「クリムトの描く女の乾いた髪の毛」は強気だ。ようやくクリムトが迎えに来てくれるらしい。空港で待っている。彼は絵に描いてくれる。きっと美しく描いてくれる。

地下鉄 オーガニック 魔術

 地下鉄の改札を抜けてホームに降り、電車を待った。私は鞄からホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』を取り出し、ページを捲った。やがて電車がやってきた。風が吹いて、ぱらぱらと幻想的な叙述がはためいた。ドアが開いた。私は乗り込んだ。そこで初めて、ホームはおろか車内にも客が1人としていないことに気が付いた。ドアが閉まった。電車は動き出した。私はがらんどうの車内で独り、電車の揺れによろめいた。ひとまずシートに座ることにした。こんな日もたまにはあるのかもしれない。私は文庫本の続きを読んだ。数分もすると、電車は次の駅に到着した。ドアが開いた。客は乗ってこない。私は後ろを振り返って、ホームの様子を観察した。特に変わった様子はない。ただ、人がいなかった。車掌の姿も見えない。ドアが閉まった。電車が発進する。私は再び文庫本に目を落とした。私の目的地はまだまだ先だった。これから乗客も増えてくることだろう。地下鉄は轟々と唸りを上げて都市の地下を進んだ。しばらくすると前方の車両から、ハイヒールを鳴らす甲高い足音が近付いてきた。私は顔を上げた。背の高い、派手な化粧と派手な服装をした女が歩いてきた。もしかしたら女装した男かも知れないが、私には判断がつかなかった。女は私の隣に座った。私は驚いた。車内はがらがらに空いているのだ。女は私に体をぴったりと押し付けるように座った。強烈な香水の匂いが鼻をついた。女は素知らぬ顔で、ヘビ柄のバッグからドライマンゴーを取り出して、食べ始めた。女はくちゃくちゃと唾液の音を立てながらマンゴーを咀嚼した。私は先ほどから同じ段落を繰り返し読んでは、頭に入ってこない文章に苛立ちを覚えていた。「おじさんも食べる?」女がドライマンゴーを一片、差し出してきた。私は咄嗟に断ろうと思ったが、機嫌を損ねると何をされるかわからないと思い、仕方なくそれを受け取った。「オーガニックだからさ、体にいいよ」女はそう言ってものすごい速度でドライマンゴーを食べ続け、わずか数秒で大袋のマンゴーを食べきった。私は匂いを嗅ぎ、特に異変がないことを確かめてから口に放り込んだ。砂糖漬けにされたマンゴーの甘みが口の中に広がった。次の駅に到着した。女が立ち上がった。私はその姿をぼうっと眺めた。女は去り際に、マンゴーの果肉でオレンジ色になった唾液を思い切り私の顔に吐き出した。嫌な臭いのする唾液で顔中がべとついた。ドアが開いた。女は降りていった。入れ違いで乗り込んできたのはおむつを履いた乳幼児だった。まだ自分で立つことすらできない、0歳児だ。それが1人、2人、3人……、ハイハイをしながら次々に乗り込んでくる。あっという間に車内は夥しい数の乳幼児で埋め尽くされた。電車が動き出すと、振動に驚いたのか泣き出す子が続出して車内は騒然とし始めた。私はいい加減我慢ができなくなって、赤ん坊を踏みつけないように注意しながら車内を前方へと移動した。運転手に文句を言おうと思ったのだ。1つ前の車両に行くと、そこはランドセルを背負った小学生で埋め尽くされていた。1つ前の車両に行くと、そこは制服を着た中高生で埋め尽くされていた。1つ前の車両に行くと、そこはリクルートスーツ姿の大学生で埋め尽くされていた。私はそれらを掻き分けてようやく最前の車両にたどり着いた。そこは裸の男女で埋め尽くされていた。彼らは飽きることなく延々と性行為を繰り返していた。私は憤慨しながら運転席のガラス窓を覗き込んだ。そこに座っていたのは白い髭をたくわえたホセ・ドノソだった。「これがあなたの望んだ魔術的リアリズムなのですか?」私はガラス越しに尋ねた。ホセ・ドノソは振り向き、ただ悲しげな表情をして首を振るばかりだった。