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ランダムワードライティング

3つの単語 短い話

映画監督 声変わり 侵入者

 映画監督の化石が発見された。過去にいくつもの賞を取った著名な監督であることがDNA鑑定で明らかになった。世間は大騒ぎになったが、それはあくまでも化石としての価値が認められたというだけだった。化石となった映画監督がどのような映画を撮影したのか、誰もそんなことに興味はなかった。それもそのはずだ。はるか昔、1200年前に映画文化は廃れたのだから。現代では「睨画(げいが)」というものが人々の主な娯楽になっている。「睨画」というのは「睨画館」のホールに数十人の人間が集まって、真っ白なスクリーンを2時間、ひたすら睨み続けるというものだ。それぞれがそれぞれの「睨画」をスクリーンに浮かび上がらせる。青春の思い出、恋人との甘い日々、いつか叶えたい夢、何を描くかは客たちの自由意志に任されている。だからそもそも映像を用意する必要がない。料金は2時間で80万円。昔の人の感覚からすると割高に思えるかもしれない。ところが「睨画館」は週末ともなれば満員御礼、行列までできるほどの大盛況なのだ。ここ数年、男の子が声変わりをした記念に、初めて「睨画館」に連れていくという母親が増えているらしい。「睨画」はある程度精神の成熟した大人にしか嗜むことができないとされている。子どもはすぐに退屈してしまうのだ。大抵の場合、声変わりしたばかりの少年に「睨画」は早すぎることが多い。だが健気にも少年たちはその通過儀礼を立派にこなした。少年は一生懸命スクリーンを睨んだ。ほとんどの場合、そこには何の「睨画」も浮かんではこなかった。それでも少年たちは2時間、じっと席に座って「睨画館」の客としての務めを果たした。そうして「睨画館」を出る時、少年たちはまた一歩大人へと近付いた自分に気付くのだ。このように、現代において「睨画館」は「ケ」と「ハレ」の役割を同時に担う貴重な文化装置として機能している。ただ、「睨画」文化も常に安泰というわけではない。時折、「睨画館」の運営に反対する「昔ながらの映画文化を取り戻す会」のメンバーがテロルを仕掛けてくることがあった。過去には、「取り戻す会」の過激派がロケットランチャーを「睨画館」に打ち込んで1500人の死者を出したこともあった。これは後に「1・21雪の睨画館事件」として、人々に語り継がれることになる。では、「昔ながらの映画文化を取り戻す会」に所属するメンバーに子どもが生まれ、その子どもが声変わりをした場合、どうなるのか? 声変わりをした「取り戻す会」の子どもは、腹にダイナマイトを巻きつけて「睨画館」内で自爆する決まりになっている。先日もそのような痛ましい事件によって多くの命が奪われた。「睨画館」側はセキュリティを強化して、「取り戻す会」の子どもが「睨画館」に入らないように警戒を強めている。それでも侵入者を防ぎ切ることは不可能に近い。見た目は普通の子どもと変わらないからだ。「そこの君、『睨画館会員証』を見せなさい」子どもは立ち止まったまま、うつむいている。「会員証がなければ中には入れないよ」少年は顔を上げて、係の男を睨みつける。係の男は少年の上半身がやけに着膨れしているのを見て、嫌な予感がする。「まさか、お前……」係の男が言い終わる前に、「睨画館」は爆音とともに炎に包まれる。

原産地 仲直り クジラ

 コーヒー豆を買う時、あなたはいつも原産地がどこであるかを気にして、グアテマラ産のもので、かつ、標高の高い場所のものしか買わない妙なこだわりのあるところ、はじめのうちはある意味かわいいとも思えたのだけれど、だんだんと付き合いが長くなるにつれて、私はそういうあなたの神経症的な完璧主義に我慢ができなくなってきたこと、あなたは気がついていないかもしれないけど、でも、その神経質な性格を私にまで押し付けてくる、執拗に、何度も何度も押し付けてくるところ、例えば、洗濯物を干す時にワイシャツに皺がよらないようにはたいてからハンガーに掛けることがこの世で唯一の、最善のワイシャツの干し方であって、その他のやり方は絶対に許さないし、その他のやり方で(例えば私のように適当に、乾きさえすればいいというやり方で)干す人間は知能の低い原始人だなんてひどい喩えで私のことを罵った日、私は絶対に忘れはしないし、そう、あなたは元々職場の先輩で、とても仕事ができて人望もあって、それはそれはかっこよく見えたし、時折失敗をした時に見せるはにかんだ笑顔なんかは可愛くてしょうがなくて、付き合い始めてもその憧れに似た恋心は継続して高まる一方で、たまに喧嘩になったとしてもすぐに謝ってくれて仲直りもできたこと、何の問題もなく交際を続けられたこと、今思えば、せいぜい週に2、3回、短時間会っていた程度の関係性だったおかげなのか、あなたの本性が見えてなかっただけで、見えたとしてもほんのちょっと氷山の一角がちらついただけで、確かに、その氷山の一角で気がつけなかった私が悪いとも言えるのだけれど(あなたは必ずそう言うでしょうね)、さすがに何もかも完璧な人間などこの世にいるはずがないし、誰しも少しくらいは欠点があるもので、まさか、それがこんな形で顕在化して、狂気の言葉が凶器となって、私をボロボロになるまで傷つけることになるなんてまったくの想定外だったけれど、今さら嘆いても時すでに遅く、狭い家庭の中、二人きりでいれば理屈屋のあなたに口喧嘩で勝てるはずがなくて、あなたの意見は「正しいけれど間違っている」、私はそう言ってやりたいのに言えなくて、泣くだけ泣いて寝室に引きこもるとあなたは勝ち誇ったように捨て台詞を吐いてバスルームに向かう、その背中を今日こそは追いかけていって、私は、台所から包丁を持ち出してあなたの心臓を背後からめった刺しにしてやると、あなたは床に倒れ込んで動かなくなり、傷口からはクジラが潮を吹くように血が噴き出して、実在の凶器を用いてあなたから言葉の凶器を奪い取ることができた私は、ようやく、あなたの呪縛から解放された。

柑橘系 紙一重 ローストチキン

 夏になると柑橘系の果汁を凍らせて、それを冷やした赤ワインに入れて飲むんです。季節のフルーツ、例えばサクランボだとかマンゴーだとかスイカだとか、そういうものを入れると見た目も可愛くてオシャレだし、自分の家で簡単にできるので毎日のように作っていますね。一日中撮影をしてクタクタになった日なんかには、そういう癒やしの要素があると嬉しくなります。ただ、飲み過ぎには注意が必要ですよ。甘くておいしいのでごくごくと飲めるんですが、ワインってけっこうアルコール度数が高いので。そうなんですよ。あとは、そうだな、呑み鳥にも気を付けないといけないかもしれない。特に夏の季節だと、窓、開けてることも多いでしょう? そういう時に呑み鳥がやってくるんです。知ってます? 呑み鳥。くちばしが細くて、長いんです。それをストローみたいにして、人間の飲むアルコールを横取りしていく。とにかくすごーく長いから、窓のサッシのところから部屋の中まで十分に届いちゃうんです。だから、よそ見していると、グラスが空、なんてこともありましたよ。実際、私も。でも最近は私も学習しましたから、そういうことはめったにありません。年の功というやつですかね。やだわね、本当に。でもこの前、つい3日前かな? 家で飲んでいたら、うとうとしてきちゃって。ソファでまどろんでいたら、ふと、目の前に長い棒みたいなものがゆらゆら揺れているんです。私は、はっ、と目を覚まして、窓の方を見ました。そうしたら、やっぱり、いるんです。呑み鳥が。いや、本当に紙一重でしたよ。もう少しで全部飲まれてしまうところでした。私は慌てて呑み鳥のくちばし、本当にね、ストローにそっくりなんですよ、それをね、手で掴んで、ぐいっと折り曲げてやりました。そうしたら呑み鳥、ギエェーって悲鳴を上げながら飛んでいきました。人間をなめるなよ、って感じですよね。ふふ。だから、何の話でしたっけ? ああ、そうそう。「ベテラン女優に聴く 大人のアルコール オトナルコール特集」でしたよね。ええ、家でもよく飲みますけどね。もちろん外で飲むことも多いですよ。この前はジビエ料理っていうんですか。そういうワイルドな料理を出す店にスタッフと行きましてね。やっぱり美味しいお酒は美味しい料理と一緒にいただくに限ります。その日はたしか、イノシシとかカモとか、シカとかウサギなんかも出ましたね。あとは、呑み鳥のローストチキン。ん? 呑み鳥が食用なの、ご存知ないですか? ええ、これが美味しいんですよ。普段アルコールを盗み飲みされた仕返しとばかりにね、肉を食ってやるんですよ。はは。野蛮ですかね、こんなこと言って。でもこれが本当に美味しくて。アルコールによく合うんです。呑み鳥はアルコール飲料を常飲しているから血液がアルコールでできていて、だからアルコールと合うんだってシェフの方は言ってましたけど、なんだか嘘くさい話ですよね。ははは。可笑しい。あ、これで終わりですか? こんなくだらない話でよかったですか? いえいえ、こちらこそ、どうもありがとうございました。楽しかったです。はい、じゃあ、お仕事はここで終わり、ということで。早速いきましょうか。皆さんグラスは持ちました? では、このインタビューがいいものになりますように。乾杯。

美術館 ポップコーン 薄化粧

 内戦中、美術館は仮設の病院兼宿泊所として使われた。傷ついた人々は壁に掛けられた抽象画に囲まれながら治療を受け、夜になると荘厳な近代彫刻の下で眠りについた。真っ白な壁と、高すぎる天井。非政府組織から派遣されてきた医者が、小さな少年の胸に聴診器を当てる。少年が症状を申告した。その声は何倍にも増幅されて部屋の中に響き渡った。建物は迷路のように入り組んでいて、似たような構造の部屋と廊下が続くので注意深く進まなければすぐに出口がわからなくなってしまう。日に日に患者の数が増えていった。完治した者から退院していったが、戦況が激しくなるにつれて入れ替わりのペースが追いつかなくなり病床の数は慢性的に不足した。ある日、国連の視察団が病院兼宿泊所の美術館を訪れた。包帯を巻き、痛々しい傷口を露わにする市民たちの姿を見て、視察団のリーダーである平和維持活動局のリシャール副局長は「非常に痛ましく、目を覆いたくなる現状だ。引き続き軍部及び反政府軍の双方に即時停戦を求めていく」と通り一遍のコメントを残した。リシャール副局長は内戦で傷ついた子どもたちのために、土産としてダンボール10箱分の菓子を持ち込んだ。子どもたちは狂喜乱舞した。ビニルの包み紙を開けて、チョコレートやクッキーやポップコーンを次々に口の中に放り込んでいく子どもたちを眺めながら、リシャール副局長は満足げな笑みを浮かべた。1人の子どもが彼女の下に駆け寄ってきた。副局長は子どもの頭を撫でた。「おいしい?」子どもは頷いた。「怪我の具合はどう?」子どもは右腕に包帯を巻いていた。「まあまあかな」はにかんだ表情で子どもは答えた。それから恥ずかしくなったのか、急にそっぽを向いて子どもたちの輪の中に戻っていった。美術館の中にいると、内戦ははるか遠くの出来事であるかのような錯覚を覚えた。そこは静かで、清潔で、時間がゆっくりと流れているような感覚があった。しかし時折建物の上空すぐ近くを飛んでいく戦闘機の爆音や、急患として運ばれてくる重傷の一般市民によって現実に引き戻された。長引く内戦があらゆる人間を不幸にさせていた。だがそれは長引けば長引くほど、止めることが難しくなっていった。その日の夜、視察団は首都のホテルに戻って本部に状況を報告した。リシャール副局長がロビーで1人資料を整理していると、現地の翻訳コーディネーターであるアミーナが隣の椅子に座った。「今日はありがとう」副局長が言うと、アミーナは微笑み、それから少しだけ影のある表情を見せた。「私の姉は内戦によって命を落としました」彼女は視線を足元に落とした。まつ毛がかすかに震えた。薄化粧の肌が青ざめたように見えた。「ほんの2か月前のことです。姉は美術大学を卒業後にスペインへ留学して、写真を学びました。何年もかかってようやく、初めて公に作品を発表する機会を得ました。そうです。先ほどの美術館に、姉の作品が飾られています」リシャール副局長は驚いて、息を呑んだ。アミーナは続けた。「お願いです。戦争を止めてください。このままでは、誰も幸せになれません」リシャール副局長は、あなたの願いが必ず実現するよう全力を尽くすつもりだ、といかにも事務方らしく答えた。2人は握手をして別れた。リシャール副局長は書類整理の手を止めて、しばらく考え事にふけった。昼間聞いた、子どもたちの無邪気な笑い声を思い出した。真夜中近くになって、副局長はロビーのテーブルを立ち、自分の部屋に戻った。エレベーターで上階に向かう間、ふと、太ももに目をやるとチョコレートの破片が付いていた。美術館で駆け寄ってきた子どもの手についていたものだった。副局長はそれを指先で拭い、それから、ゆっくりと目を閉じた。

カムフラージュ 雨乞い 高速道路

 デンマーク製の陶磁器を扱う食器専門店に、昨夜、覆面をした3人組の男が不法侵入した。男らは店舗に陳列されている食器をすべて、1つ残らず破壊した。床に叩きつけ、壁に放り投げ、あらゆる方法を用いて食器は割られた。青と白の食器が粉々に粉砕され、次々に積み重なった。レジの現金は無事だった。男らは犯行後、カムフラージュのために店の窓ガラスをすべて黒いスプレーで塗りつぶした。3人組のうちの1人、コンゴ民主共和国出身のミランドゥ・マラランダは、息を切らし、逃走しながら、祖国に思いを馳せた。祖国に残した14人の家族(父と母、祖父に曾祖母、弟が3人に妹が5人、若くして結婚した妹の旦那とその間にできた子どもが1人。祖父は有名な祈祷師で、村の重要事項はすべて彼の祈祷によって決定された。病人が出れば黒魔術を使い治療し、乾季が長く続けば不眠不休で雨乞いをした。彼が祖国を出、この国に出稼ぎにやってきたのも、祈祷師である祖父の言いつけによるものだった。)の生活はミランドゥ・マラランダにかかっていた。彼がこの豊かな国で賃金を稼いで祖国に送ってやらなければ、彼らはすぐに飢え死んでしまう。来日当初、仕事は順調だった。港でコンテナから積荷を下ろす、ただそれだけの仕事だったが給料は悪くなかった。もともと体が大きく丈夫だったミランドゥ・マラランダにとっては、天職と言ってもいいほどだ。しかしそのような順風満帆な生活も長くは続かなかった。同僚の1人がコカインに手を出した。四六時中ラリっていたその同僚が、仕事中に暴力沙汰を起こした。仲裁に入ったミランドゥ・マラランダがケンカ相手に突き飛ばされたその時、ちょうどクレーンから降ろされたコンテナに挟まれ、彼は右腕を失った。男らは夜の闇に紛れて逃走を続けた。高速道路の高架下で、男らはホームレスの住居の陰に滑り込み、身を隠した。右腕を失い、職も失ったミランドゥ・マラランダはコカイン中毒の同僚とともに強盗を始めた。はじめのうち、それは金を盗むことを目的としていた。ところが時を経るにつれ、徐々に金銭を得ることよりも、強盗という行為そのものに含まれる強い暴力性に惹かれていった。彼らは住居や店舗に侵入し、破壊の限りを尽くした。ここ2週間ほど、祖国に送金ができていない。いずれミランドゥ・マラランダの家族は飢え死ぬことになるだろう。男らは再び走り始めた。雨が降り始めていた。遥か数千キロ離れた赤土の祖国から、祖父が降らせたものに違いなかった。ミランドゥ・マラランダは存在しない右腕を一心不乱に振りながら、パトカーのサイレンが近付いてくるのをどこか他人事のようにぼんやりと聞いていた。

時刻表 電波 セントバーナード

 バス停でバスを待つ間、ふと時刻表に目をやると行き先が1つ増えていた。カンタベリー大学経由、クライストチャーチ国際空港行き、それがこのバス路線の唯一の行き先であるはずだった。僕は待合のベンチから立ち上がって、時刻表に近付いた。新たなる目的地には、「見捨てられた街」とだけ記されていた。16時22分発、1日に1本だけ運行している。僕は腕時計を確認した。16時17分だった。僕が乗車する予定のバスは、16時25分に出発予定だった。「見捨てられた街」行きのバスの方が早く着く。僕は待合のベンチに戻り、腰を下ろした。隣にはいつの間にか老婦人が1人座っていた。老婦人は熱心に雑誌を読んでいた。どんなジャンルの雑誌だったのか、今となっては思い出すこともできない。「バスの行き先が増えたようですね」僕が話しかけると、老婦人は怪訝な顔をして肩をすくめた。「なんのこと?」「『見捨てられた街』って、どんなところだろう。不思議な感じがしますね」老婦人の表情がさらに険しくなった。「あなた、知らないの?」「何がです?」「この地方に住んでいる人間で知らない者がいるはずないわ」「僕は生まれも育ちもクライストチャーチですよ」「そんな馬鹿な」老婦人は唖然とした顔でしばらく僕のことを見つめていた。僕が何も答えないでいると、老婦人は再び雑誌に目を落として、それ以降何も話さなくなった。息すらしていないように見えた。僕は腕時計を確認した。16時21分だった。教会の建物の陰から、バスが左折してくるのが遠くの方で見えた。「あなたは『見捨てられた街』に行ったことがあるんですか?」近付いてくるバスを目で追いながら、老婦人に尋ねた。しかし返事がない。隣を見ると、彼女はもうそこにいなかった。バスがバス停に到着した。行き先を示す電光掲示板には、「見捨てられた街」と表示されていた。僕はそのバスに乗った。どちらにせよ、大した用事ではなかったのだ。宛もなくバスに揺られるのも悪くない。「見捨てられた街」行きのバスの乗客は僕1人だけだった。運転手はちらりと僕の姿を一瞥したきり、運転に集中した。僕は後方の席に座り、窓の外の景色を眺めた。冬が始まりかけていた。ガラス窓が微かに白く曇っている。車内は暖房が効きすぎていた。僕は手袋を外した。しばらくすると強烈な眠気が襲ってきた。僕は深い眠りに落ちた。短い夢を見たが、内容は忘れてしまった。目が覚めるとそこはもう、「見捨てられた街」だった。運転手が終点を告げた。運賃を支払い、外に出た。一歩足を踏み入れた瞬間、バス停の老婦人が言っていたことを、僕はすべて理解した。そこはまさしく、「見捨てられた街」であり、「見捨てられた街」以外の何ものでもなかった。街には人々が暮らしていた。何の変哲もない街だった。都市としての機能に問題はなく、辺鄙な田舎町というわけでもない。携帯電話の電波もしっかりと入る。でもそこは「見捨てられた街」だった。僕はそのことをひどく悲しんだ。やがてその感情は怒りに変わり、それから、徐々に諦めへと移ろっていった。街の入口でボール遊びをしていた少女が駆け寄ってきた。飼い犬のセントバーナードが後ろからついてくる。「ようこそ、『見捨てられた街』へ」少女が僕の手を握った。僕は頷いて、彼女と一緒に「見捨てられた街」に入っていった。僕はこれから、この「見捨てられた街」で暮らすことになるのだ。そして一生、この街を出ることはない。それは初めから決まっていたことのように思えた。セントバーナードが僕の手首に鼻を近づけて、においを嗅いだ。頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振った。「あなたはこれから『見捨てられた住人』になるわけだけど、本当にそれでいいの?」少女が尋ねた。「初めからこうなるべきだったんだ」僕は答えた。少女は表情のない目で僕の顔を見た。「まずはあそこで住民登録をするの」少女が前方を指差した。その先には、雲まで突き抜けるほど高い、「見捨てられた塔」がそびえ立っていた。

辞書 テント 冷蔵庫

 びりびり、ぽい。びりびり、ぽい。川上から川下へと流れていく破られたページを、私はただぼうっと眺めていた。辞書の薄い紙は驚くほど簡単に破れた。川の水に浸すと薄い紙は半透明になって、光り輝く水面の下で文字列が波を打った。「慟哭」を含んだページが流れていった。「カムチャツカ」を含んだページが流れていった。「百舌鳥」を含んだページが流れていった。川べりは静かだった。なだらかな山道を少し登るだけで、途端にひと気が途絶える。鳥の声が時々聞こえた。木の枝ががさがさと揺れる時、それは風が通り抜ける合図になった。「塩」と「水」と「青」がそれぞれ含まれたページが流れていって、三角州でふた手に分かれ、いずれ合流する地点がすなわち「海」となる。私は夢中になってページを破った。そしてそれを流した。いつまで経っても飽きなかった。やがて日が暮れて、夜になった。私はそれを止めなかった。もはや文字は見えず、川の水は墨汁のように黒かった。ページを破る乾いた音と、水のせせらぎだけが世界のすべてであるように感じられる夜、その優雅な流れをせき止める足音が聞こえた。「びっくりした。熊かと思った」振り返ると、ランタンを手にした若い男が立っていた。「こんなところで何をやってるんですか。あ、もしかして、幽霊の人ですか……?」男にそう聞かれて、私は思わず笑ってしまった。男もつられて笑った。わけもなく、ただ1人になりたかったんです。そう答えると男はそれ以上詳しく聞いてこなかった。私は男と川べりでしばらく話し込んだ。男は1人でキャンプをしている最中だった。それから、31歳の会社員であること、山形県の出身であること、趣味はアウトドアで特に釣りとキャンプが好きなこと、そして、7日前に妻が亡くなったことなどを話してくれた。私は辞書の紙を破りながら、それらを聞いた。「あなたと一緒です。1人になりたかったんですよ、僕も」ランタンに照らされた男の顔はげっそりと痩せていた。それは骸骨を思わせた。「よかったら、テントで一緒に朝を待ちませんか? もう夜も遅いし、山を下るのは危険ですよ」男が提案した。私は同意した。その夜、私たちはテントの中でセックスをした。ほとんど物音を立てない、静かなセックスだった。行為が終わって眠りにつくまでの間、男は私に背を向けて横になりながら、声を出さずに泣いていた。私は木々のざわめきに耳を済ませていた。翌朝、別れ際に男がプレゼントだと言って、小さな白い破片のようなものをくれた。私は辞書のページを1枚破って、男に渡した。「お互い、ふとした瞬間に思い出せるように」男は笑って、手を振った。家に帰り着くと、私は古代魚の歯の化石のように見える白い破片を冷蔵庫の奥の方にしまった。今でも時々、古くなった食材を処分しようとして中を覗き込むと、芯まで冷たくなった白い破片が目に入る。私はそのたびに、あの、あまりにも静かで悲しいセックスのことを思い出すのだ。