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3つの単語 短い話

これからのことについて

 

福岡の子はよく「怖い」という言葉を口にする。

 

二人の関係性に対する不安の言葉だ。

 

例えばそれが、会えない期間や、関係がうまくいっていない時期に発せられるのだとしたらまだ僕にもなんとなく気持ちがわかる。でも、彼女がそのような不安を口にするのは決まって、二人の関係がうまくいっている時、恋人同士が醸し出すあの独特の、甘い雰囲気のさなかだ。だから僕は混乱する。うまくいきすぎているのが怖い、と彼女は言う。僕にはよくわからない。

 

いったい何が不安だというのか? こんなにもうまくいっているのだというのに。

 

その言葉の真意をそれとなく彼女に尋ねてみても、いつだって彼女は曖昧にごまかして、うやむやのままになってしまう。僕は次第に、彼女の発する「怖い」という言葉を怖れるようになった。

 

あなたが怖いと言うことが、僕は怖い。

 

彼女の肌に触れる。僕は唇を重ねる。笑顔で見つめ合う。でもその次の瞬間、彼女の口からまた不安の言葉が出るのではないかと、僕の笑顔はほんのわずか、ぎこちなくなる。

 

先週の日曜日、僕たちは外出をした。電車で二時間ぐらいかけて、少し遠くまで遊びに行った。とても楽しかった。彼女もとても楽しそうだった。僕たちはどんどん仲良くなっていく。昨日よりも今日、今日よりも明日、僕は福岡の子のことをより深く知る。彼女にもまた、同じように知ってほしいと思う。

 

その日、僕を見る彼女の目が、いつも以上にきらきらと光り輝いていた。

 

こういうことを言うのは恥ずかしいけれど、たぶん、僕のことを好きな気持ちが溢れていたのだと思う。言動の端々からそれを感じ取ることができた。僕はそれをとても嬉しく思った。なぜなら、僕もまた、彼女のことを好きな気持ちが溢れていたからだ。

 

夜が深まり、僕たちは愛し合うための準備をし始めた。

 

ところが、そこで予期しなかったことが起きた。

 

僕が彼女の服を脱がせようとした時、彼女が突然、前述した「怖い」発言をし始めたのだ。

 

僕はぎくりとして、彼女の下着にかけた手を止めた。

 

「なにが怖いの?」詰問するような強い口調にならないように、できうる限りの穏やかなトーンで僕は尋ねた。福岡の子はいつものように、「うーんw なんかね、よくわからんのやけど。なんやろ、私の中でもまとまっとらんけんねw」とはぐらかそうとする。いつもならばそのままうやむやにしてスルーしてしまっていた場面だったけれど、僕は、その真意をしっかりと確かめなければならないと思った。彼女になにか思うところがあるのならば、僕はそれをちゃんと聞いて、受け止めてあげなければいけない。

 

「怖いっていうのは、要するに、将来のこと?」僕が尋ねる。福岡の子がうなずく。しかし、具体的なことは話そうとしない。なかなか真意がつかめないまま、話がわきにそれていく。彼女の頭の中で話がまとまっていないというのは、どうやら本当のようだ。彼女の曖昧な言葉を、僕が要約して整理し、時に推測を交えて、まとめていく。彼女は「そうそう」と、段々と納得し始める。

 

彼女との間では、「結婚」という言葉をなるべく使わないようにしていた。

 

離婚経験について、話すのが怖かったからだ。

 

でもその日の夜、「結婚」という言葉を使わずに話を進めることは不可能だった。僕は思い切って、彼女の言いたいであろうことを言った。「つまり、この先二人の関係が進展していって、同棲して、結婚して、っていう流れが怖いっていうことなんだね?」僕は尋ねた。福岡の子は深くうなずいた。彼女が言いたかったけれど、でも言いづらそうにしていたのは、つまりそういうことだったのだ。

 

彼女は、結婚をしたくないのだと言う。

 

そして、それを僕に言うことで、嫌われるのではないかと思っていたらしい。

 

正直、意外だった。一般的に言って、男性よりも女性の方が結婚願望が強いことが多い(もちろん、それはあくまでもそういう傾向があるということであって、例外はいくらでもあるし、どちらが悪いという話でもない。)。福岡の子は、僕が早く福岡に住みたいとよく言ったり、一緒に住みたいと言っていたから、それを結婚願望だと早とちりしていたらしい。

 

彼女の家庭は両親が仲良くなかった(過去形なのは、お父さんが亡くなっているから。)。だから、家庭というものにそもそも憧れや希望を抱いていない。

 

彼女の思想の根幹を成すのは、「諸行無常感」だ。いつまでも続くものなどない。全てのものはいつか消えてしまう。それは人間同士の気持ちについても同じこと。だから、彼女にとって「結婚」という制度は少し重すぎる。結婚という重い契約を交わす必要はない。軽い関係でいたい(ここで彼女の言う「軽い」というのは、「軽薄」という意味ではなく、「軽やかな」という意味だ。)。それらが、彼女の考え方の主旨だ。

 

ある時、彼女が友人に「結婚したとしても、一緒に住む必要はないよね。例えば同じマンションの、別の部屋に住んだりしたい。私はそういう風がいい」という話をしたら、ドン引きされたことがあるそうだ。だから、そういう考え方は一般的に受け入れられにくいものだと知って、それ以来、彼女は自分の結婚観のようなものを人に話しづらくなってしまったそうだ。

 

彼女の話を聞いて、僕は勇気を出して自分の考え方を話した。

 

自分も多くの部分で彼女の考え方に賛同できること。それは離婚経験が大きく影響していること。結婚制度に対する疑問を自分も持っていること。愛の形には色々なパターンがあること。好きな人と一緒に居続けることに、結婚という制度は必須ではないこと。また、諸外国の事実婚婚外子の多さについて。

 

それから、結婚してもしなくても、僕はあなたとこれからも一緒にいたいのだということについて。

 

福岡の子は、離婚の話もしっかりと聞いてくれた。バツイチであるということが、彼女との将来を考えるにあたって障壁になるのではないか、と僕が思っていたことを話したら、彼女は「私としてはむしろ、一回そういう経験がある方が心強いというか、逆に経験値があっていいと思う。私は全然気にしない」と言ってくれた。それを聞いて僕は涙が出そうになってしまった。かなりぎりぎりのところでとどめたけど。

 

お互い、彼女は僕が結婚したがっていると思っていたし、僕は彼女が結婚したがっていると思っていた(最近彼女の友人たちが結婚ラッシュだったので余計に)。でも、それは勘違いだったことがわかったし、二人の将来について、軸の部分で意見が一致したのは僕たちにとってとても大きなことであるような気がする。時代が徐々に変化してきたとはいえ、前述したような考え方をする人はマイノリティだ。だからこそ、同じような考えを持った福岡の子と出会えて、こうして付き合いを続けられているというのはすごく幸運なことなのだと思う。嬉しかった。率直に言って、めちゃくちゃ嬉しかった。

 

もちろん、彼女はまだ若いし、実感がないだけなのかもしれない。数年すれば考え方も変わって結婚したくなるかもしれない。

 

それならば、それでいいと僕は思う。

 

その時になったらまた、この前のように話し合えばいい。そしてお互いにとってベストな形を模索していけばいい。

 

話は一時間以上にも及んだ。最後の方に僕が、「とりあえず今のところは、『好きだから会いに行く』っていうシンプルな感じでいいんじゃない」と言うと、福岡の子はにこっと笑って、「そうね。それがよか」と言った。

 

それから、僕たちは途切れた行為の続きをした。

 

名古屋市と福岡市は直線距離で、600キロもの隔たりがある。簡単に会いに行ける距離ではないし、会えない期間、お互いが何をしているかなんて本当のところはわからない。

 

僕は福岡に移住するかもしれない。彼女と結婚するかもしれない。しないかもしれない。離れ離れで暮らして、内縁の関係になるかもしれない。子どもが生まれるかもしれない。結婚をしないことで、様々な困難があるかもしれない。それが原因で、いつか、離れ離れになるかもしれない。

 

福岡の子は、すごく優しい子だけど、とてもドライなところがある。世間一般に溢れている「永遠の愛を誓う」なんていう類の言葉が、嘘っぱちであることを、彼女はよく知っている。だから彼女は、「ずっと続くことなんてないけんね、将来どうなるかわからんし。でも、とりあえず、好きな間は、一緒にいたい。それがずっと続けば、それはそれでいい。私はそう思っとる」と言った。

 

とても長くなりましたが、以上がこの前あった「大事な出来事」の大筋です。別にこんなことをいちいち長文で報告する必要なんてないんですけど、以前からツイッターのみなさんには僕たちのことを応援していただいて、時には面白がってもらって、見守っていただいているので、大事なことは言っておかなければな、と思ったのと、あとは文章化することで自分の中で整理できるかな、と思って書いてみました。

 

これからどうなるかわかりませんが、今回の出来事で、彼女に対する気持ちがより強いものになりました。

 

これからも温かく見守っていただけると嬉しいです。

 

 

福岡前夜

もはやあなたに会うことしか考えられなくなっているここ数日、僕は、何事にも集中できないまま、夕暮れ、ぎりぎりまで照明をつけないでいる遊びを通して早まる気持ちを抑え込もうと、必死になっている。明日、600キロの距離をわずか一時間半で飛び越えていく。例えば別の時代、歩くしかなかった時代、あなたと出会っていたのならば僕はどのようにしてそれを受け止めていただろう。あるいは今と違う結果になっていたのかもしれない。その仮定に意味があろうがなかろうが、この時代に生まれてよかったのだと、僕が鏡のないレンズを通じてあなたを写し出したデータの集積を眺めながら、考える。あなたが笑うのと同じように、僕は笑う。それは他者の心を読み取る、その原則的不可能性を飛び越えた。あなたが、飛び越えさせた。想像力という、僕が唯一持っている武器があなたの感情の殻を切り開いた結果がそれなのだとしたら、僕は朝方に涙を流す、そのことをいとわない。第一声について考える。あなたが住んでいる地域の最も大きな駅で、あなたの顔を見て僕はうまく声をだすことができるだろうか。あなたが手を振る。僕も笑って振り返す。笑っているが、少し泣きそうでもある。あなたはいつものように、まず、僕の肩に手を置くだろう。僕もあなたの肩に触れる。華奢な肩に体温を感じる。「お腹すいとうと?」あなたが尋ねる。「うん、けっこうすいてる」僕は答える。帰宅ラッシュの大きな駅、一週間を始めたばかりの人たちは、少し憂鬱そうな顔で歩いている。その中で僕たちは場違いな笑顔で、歩き始める。僕は手をつなぐタイミングをはかっている。それよりも先に、あなたが指を絡ませる。いつだってあなたが先だった。僕は曖昧に笑いながら、ごめん、いつも、と胸の内でつぶやくことしかできない。夜が更けていく。あなたに会える月曜日のことを、僕はそのように思い浮かべる。今日も眠りにつく。明日を待ちわびている僕が、いつもより少しだけ、早い時間に。

過去日記(2)

2016/1/5

 2016年になった。今日は帰りにいつもどおり上前津の駅まで歩いて行ったのだけれど、大須の商店街がまだ正月気分ウハウハといった風情で出店などが出ていて賑わっていた。いつもよりはかなり人出も多く主にまだ冬休みの中高生あるいは大学生などが目立った。商店街を歩いていると前から不思議な未来形の乗り物に乗った若い男がやってくる。セグウェイの持ち手の部分をなくして土台の部分だけにしたような乗り物で、テレビで見たことはあったが名前は忘れた、しかし実際に目にしたのはそれが初めてだった。やんちゃ風の黒い肌をした男は傍らの派手な女の肩を掴みながら危なっかしくふらふらとその乗り物に乗るというよりは乗られているといった調子、ぐらぐらと前後する土台だけの乗り物は七色のきらびやかな電光を発していてそれが仕事帰りの目に染みた。商店街を進むとまだまだ出店が連なっている。ある店で何の店かは忘れたがおそらく食べ物、ジャンクフードのたぐいの屋台の隣で男が「トルネード一つください」と少し異様な大きさの声で言っている。するとすかさず店員が「誰だ」と返す。間髪入れずに白痴のような言い方で男が「トルネード一つください」店員が「誰だ」それを何度も何度も繰り返していてかなり不気味だったが横で通り過ぎていった女子高生達は「何アレ」とか何とか言いながら笑っていた。あれは客寄せのパフォーマンスだったのか、もしかしたら白痴のように聞こえたのは男が外国人で日本語のイントネーションが不自然だったからということだったらよいが、男が本物の白痴で、そうなると店員もかなりおかしな対応の仕方をしているので僕は少し怖く感じた。大須の商店街にはいろいろとおかしな人々が行き交っていておもしろいが休日に訪れると人の多さに辟易するので仕事の行き帰りに通りすぎるぐらいがちょうどいいのかもしれない。

過去日記(1)

 

2017/7/17

 

 昨日は結局昼寝をしてしまって、夜遅くに服を買いに行った。午前中は執筆、午後は昼ごはんを食べたら昼寝、夕方から勉強、夕飯を食べ、リサイクルショップへ。昔地元にもあったセカンドストリートというリサイクルショップ。けっこういいアロハシャツと短パンが買えた。あとずっとビーチサンダルが欲しかったので300円で買えてよかった。今日はどうしよう。とりあえず午前中は執筆をして、午後から勉強して、それから本屋に言って発音の本を買いに行くか。今日は図書館は休み。エーミールと探偵たちの冒頭をドイツ語で確認しなくちゃいけない。愛知県図書館にあったので明日仕事帰りにでも行ってみようか。あとはデモについてのエッセイをブログにあげること。仕事を辞めると決めてから、人生が楽しくなってきた。もちろん不安もあるが、僕は自分で自分の働き方を改革する。政府の推進するものとは別のやり方で。この境地まで来るのに、大学を卒業して6年もかかった。相変わらず、時間のかかる人間だ。生活の細々としたことは時間をかけず効率よく片付けられるのに、人生の意味だとか、大事な人の気持ちとか、そういうのを理解するのに僕は何年もかかってしまう。でもそれはしょうがない。そういうものなのだ。時間をかけなければわからないことはたくさんある。気付けるだけましだとも言える。まだ遅くない。いつだって遅いということはない。これは僕の人生訓のようなものになるだろう。おそらく、これからの人生において。

 結局、今回も図書館で借りた本を全部読めなかった。まだ3日あるけど、返却期限まで。カフカの『訴訟』は全部読みたいな。新訳版。やっぱりカフカが一番すごいと思う、古今東西の作家の中で。ドフトエフスキーとか、フィッツジェラルドとか、カミュとか安部公房とかいろいろいるし全部すごいけど、僕の個人的な好みでいうとカフカかな。数年前だったら、そういうふうには思わなかっただろうけど。好みも変わってくる。変わっていくことはいいことだと考える。変わらないことの良さは、僕には半分程度しか理解できない。全く理解できないわけじゃないけれど。どんどん変わっていく。昨日言ったことを、今日反故にする。それでいいのだと考える。軸がぶれているとか一貫性がないとか、そういう陳腐で月並みなクリシェは全部蹴散らしてしまえ。言葉を疑え、誰も言ったことのない言葉で、語れ。

市場 空き巣 国王

 市場に人が溢れ返る。すれ違うことすらままならない狭い通りを、僕は進んでいく。リンゴ売り、魚の内臓、動物の皮、砂埃が立ち、視界が白黒のノイズに遮られた。小さな竜巻が起こった。小屋の骨組みがぐらついて商店主たちが慌てふためく。人々はみな一様に暗い顔つきで、金銭のやり取りをしている。南国産の甘い果物を受け取った老婆がしばらくの間それをじっと見つめている。頭上でカラスの目が光った。近くにいた色黒の少年があっ、と声を上げた瞬間、カラスが急降下して老婆の手から果物を奪った。くちばしが果物の皮に刺さった時、果汁が老婆の顎に飛び散った。老婆は腰を抜かしてその場に転がった。果物屋の主人は悲しげな顔で肩をすくめる。暑い。最高気温摂氏48℃を記録した、まさにその日の朝、確かに僕はベランダで凍えながらホットミルクを飲んでいたはずだった。家を出て、市場にたどり着くまでの記憶が抜け落ちている。思い出そうとすると頭が痛んだ。僕は市場を北に進む。恋人が空き巣に入られたのだと電話をかけてきたのは、昨日の深夜だった。台風が上陸していたような気もするが、定かではない。電話越しに窓ガラスの揺れる音が聞こえた。「盗まれたのは私の体で、その他は全て無事だったわ。つまり、私の心さえも」恋人は言った。僕はその言葉の意味を未だにはかりかねている。市場を抜けなければ恋人の家にたどり着けないことを、僕は鬱陶しく思っている。気温は数分ごとに1℃ずつ上昇しているのだが、なぜそれがわかるのかというと、州政府が各自治体に設置されたスピーカーからその推移を報告するよう義務付けているからだ。あちこちで悲鳴が聞こえる。女が犯されている。男は背骨を砕かれる。男でも女でもないものは、そもそも処刑されるためこの地域には存在しない。全ては国王の横暴であったが、独裁体制を覆せるほどの軍力を持った組織は先日疫病の流行により全滅してしまった。人々は絶望している。海に囲まれたこの島には閉塞感で満ち溢れていた。島の周囲には海賊がうようよいる。海賊は空腹を抱えた狼のように飢えている。彼らに捕まったら最後、何もかもを奪われてしまう。「心さえもね」恋人が笑った。恋人との性行為の最中、僕は最初から最後まで目を瞑っていた。彼女はそれをいたく悲しんだ。当然のことだと僕は思う。僕が彼女の立場であっても、同じように悲しむだろう。市場に人々は流入し続け、いつまで経っても流出することがない。押し寄せる人波に潰されて、小さな子どもが泣き出した。母親は額の汗を拭いながら、子どもの頬を打った。子どもはいつまでも泣きやまない。数種類のスパイスが入った汁を売る屋台は非合法の武器屋としてマフィアたちの間で知られている。店員の目が通りを鋭く睨みつける。あとどれくらい歩けば、僕はこの市場を抜けられるのだろう。恋人は待ちくたびれて、きっと今頃ほかの男と寝ているだろう。その男は屈強な筋肉で彼女の体を支え、目を瞑ることなく彼女のありとあらゆる器官をその目に焼き付けることだろう。そうして男が射精に至った瞬間、僕は市場を抜け出して走り出すのだ。この島国を腐敗させた国王を暗殺するために。

この世で最も強い人間

過ごしやすい夜、と僕が言う時、それは厳しい冬の夜をやり過ごした先に迎えた春に対する歓待の気持ちが含まれている。公園を散歩する。真夜中に大きな公園を散歩する。都市の中枢に突如として現れた、そこだけ太古の時代にタイムスリップしたかのような公園を歩く。終電間際の駅から疲れ切った表情の人々が歩いてくる。池のそばのベンチで恋人同士が語り合う。ホームレスの老人は表情のない顔で行く宛もなく彷徨う。僕は缶ビールを片手に歩く。僕だって同じだ。行く宛などない。すれ違ったホームレスの老人が自分の未来の姿ではないなどと、どこの誰が断言できるだろう? 野球場の照明は落ちている。僕は一塁側のベンチに座って、缶ビールを飲む。暗闇に目が慣れてくると、三塁側に誰か人がいるのがわかる。僕は一瞬ドキッとするが、その人影はじっとベンチに寝転がったまま、動かない。きっと向こうも驚いているのだろう。僕が彼の、暗闇との調和を破ってしまったのだ。ピッチャーマウンドまで歩いてみる。スニーカーが砂利を踏む音がバックネット裏まで響く。アルコールの酔いが僕を大胆にさせている。三塁側のベンチで寝転んだ人影は、死体のように動かない。

 

近所に大きな公園と大きな図書館がある今のアパートに引っ越してきて2か月になる。窓の外は大学のキャンパスと隣り合っていて、ほとんど人が訪れることのない最端のサークル棟だから静かでいい。時折、夜になると警備員が見回りにやってくる。僕はそれをベランダからぼうっと見ている。警備員は建物の柱に掛けられたなにか(なにかはよくわからない。鍵のようなものか?)に触れ、納得したように頷くと、帰っていく。野良猫が通りかかる。原付のエンジンの音が切れる。どこからか微かに煙草のにおいがする。僕は過ごしやすい夜に、ベランダで一人、この先の人生について考える。答えが出たことはいまだかつてない。それでも考える。考えざるを得ない。考えないことが幸せだとは限らない。考えることは不幸につながりやすい。考えない人間はいない。考えない人間がいるのだとしたら、それはこの世で最も強い人間だということになる。無敵になることができる。考えないことによって、無敵になれる。

 

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祈り、ビートに乗せられた

 

 

人人人 平和音楽 笑い顔 ミサイル発射 ニュース速報

 

灼熱の太陽が管楽器の音にかき消されるようでいて、肌には確かに熱が残った。分刻みで赤くなっていく腕に羽虫がとまる。腕時計をした部分は生白いまま取り残された過去の記憶のように、あまりにも僕自身である気がして胸の辺りがむかむかとしてくる。手足がしびれる。熱中症の予兆。酒を呷ってもそのしびれは収まらない。

 

燃える皮膚 冷えてく目玉 どうするの? あなたの声で 目覚める眠り

 

ビートに合わせて人々は踊る。僕も自然と体を動かしている。音楽の祭典は高揚感によって酔わせる、人々を、普段からまとわりついてくる不安や焦燥を排除するための音楽であり、それは強制的に行なわれる。言葉が酩酊してくる。それはビートのせいであり、メロディのせいであり、アジテーションのせいでもある。髪の長い男がマイクに向け叫んだ。人々は拳を突き上げた。

 

ハウリング すぐ目の前の 見知らぬ娘 白いうなじを 切り裂けたなら

 

人口密度が高い。女の匂いがする。髪をかきあげた女のうなじにタトゥーが見える。男は首筋に汗をかいている。空は青すぎる青さでその中を鳶が飛んでいる。嘘みたいに、ゆっくりと。僕は時折ステージから目を外して、空を見上げる。俺はいったい何をしているんだ? ふと我に返る瞬間が、熱狂の最中に突如として生起する。僕はステージに再び目を戻す。サングラスをかけた男がマイクに向け叫んだ。人々は拳を突き上げた。

 

 

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